【箱根駅伝】早稲田大学の出場回数や成績は?有名出身選手も

早稲田大学といえば学業の面においても非常に有名で、六大学野球をはじめ、あらゆるスポーツの分野でもトップクラスといった印象がありますよね。

箱根駅伝においても例外ではなく、第1回大会から出場している早稲田大学は出場回数も上から2番目の92回を誇り、13回の総合優勝も飾っている箱根駅伝の常連校・強豪校としても知られています。

そんな早稲田大学ですが、第95回大会(2019年)では13年振りにシード権を逃し、苦い経験も味わっているんですね。

シード権を逃し、再び予選会からのスタートとなった早稲田大学は、どのようにしてチーム力を上げてきたのでしょうか?

そこでここでは、早稲田大学の箱根駅伝における長い歴史を紐解きながら、強さの秘密についてもご紹介していきたいと思います。

早稲田大学出身の有名選手などについてもご紹介していきますので、ぜひ最後までご覧になってみてくださいね。

箱根駅伝での早稲田大学の出場回数や成績は?

それではまず、箱根駅伝における早稲田大学の歴史や出場回数、箱根駅伝での成績についてご紹介していきたいと思います。

箱根駅伝における早稲田大学の歴史

早稲田大学競走部創部1914年(大正13年)

箱根駅伝には第1回大会(1920年)から出場している、とても長い歴史を持つ大学なんですよ。

しかも、2022年までに行われた箱根駅伝の98回中91回も出場していて、箱根駅伝の出場回数がトップの中央大学95回に次いで、2位の記録も持っています。

また、箱根駅伝の連続出場も46回継続中ということで、シード権を逃しながらも46回も連続で出場しているチームでもあるんですね。

ですが、第95回大会(2019年)の箱根駅伝では往路で失速、復路で追い上げるも総合13位となり13年振りにシード権を逃した早稲田大学。

この結果には選手たちも落ち込みを隠せず、翌年の箱根駅伝予選会でもギリギリ9位で予選会を通過。

それまで早稲田大学は常連校・強豪校ということもあって「箱根駅伝では3位以内」という目標を掲げていましたが、チーム状態を踏まえて新しい目標を「シード権獲得(10位以内)」にしようと設楽豊監督が提案したところ、それが選手たちの意識改革に繋がって、第96回大会(2020年)では目標通りシード圏内の7位に入ることができました。

ちょっとした意識の違いなのかもしれませんが、それでもすぐにシード権を獲得できるチーム力というのは、長年引き継がれた強さというものがあるのかもしれませんね。

第97回大会(2021年)では総合6位に入り翌年のシード権を獲得するも、第98回大会(2022年)では総合13位と連続でシード権を獲得するには至らず、予選会を通過する必要がありました。

予選会の厳しい戦いを勝ち抜き、第99回箱根駅伝(2023年)への切符を手に入れ、さらに6位という成績を残し第100回記念大会の出場権も獲得。

どこまで順位を上げていくのか?

早稲田大学の活躍に期待ですね。

そのほかの箱根駅伝に関する記録は、以下になります。

早稲田大学 箱根駅伝の成績

早稲田大学 箱根駅伝の成績
 記 録回 数
出場回数92回
シード出場回数47回
総合優勝回数13回
往路優勝回数13回
復路優勝回数16回
区間賞獲得数120回

※ 2023年10月現在

早稲田大学 箱根駅伝の今までの順位記録

早稲田大学 箱根駅伝の今までの順位記録
回・年総合順位往路順位復路順位
99回
2023年
6位5位7位
98回
2022年
13位11位12位
97回
2021年
6位11位4位
96回
2020年
7位9位5位
95回
2019年
12位15位7位
94回
2018年
3位3位7位
93回
2017年
3位2位9位
92回
2016年
4位5位5位
91回
2015年
5位6位3位
90回
2014年
4位3位4位
89回
2013年
5位2位8位
88回
2012年
4位2位4位
87回
2011年
1位2位1位
86回
2010年
7位7位10位
85回
2009年
2位2位2位
84回
2008年
2位1位3位
83回
2007年
6位4位10位
82回
2006年
13位9位15位
81回
2005年
11位15位8位
80回
2004年
16位15位16位
79回
2003年
15位10位16位
78回
2002年
3位4位2位
77回
2001年
10位11位5位
76回
2000年
6位8位5位
75回
1999年
10位7位13位
74回
1998年
6位3位10位
73回
1997年
5位4位5位
72回
1996年
2位1位5位
71回
1995年
2位1位6位
70回
1994年
2位2位2位
69回
1993年
1位1位1位
68回
1992年
6位2位9位
67回
1991年
11位10位12位
66回
1990年
9位5位12位
65回
1989年
10位10位11位
64回
1988年
9位5位14位
63回
1987年
8位6位10位
62回
1986年
2位1位9位
61回
1985年
1位1位2位
60回
1984年
1位1位1位
59回
1983年
2位2位1位
58回
1982年
5位7位1位
57回
1981年
5位6位5位
56回
1980年
3位2位4位
55回
1979年
4位2位5位
54回
1978年
6位5位6位
53回
1977年
13位11位13位
52回
1976年
本大会に出場なし
51回
1975年
15位14位15位
50回
1974年
16位17位16位
49回
1973年
15位13位15位
48回
1972年
本大会に出場なし
47回
1971年
13位11位13位
46回
1970年
本大会に出場なし
45回
1969年
14位14位4位
44回
1968年
10位11位9位
43回
1967年
10位10位10位
42回
1966年
7位8位7位
41回
1965年
6位9位6位
40回
1964年
7位8位5位
39回
1963年
10位7位11位
38回
1962年
12位14位11位
37回
1961年
7位9位8位
36回
1960年
5位6位5位
35回
1959年
6位4位7位
34回
1958年
6位7位6位
33回
1957年
5位8位1位
32回
1956年
6位7位3位
31回
1955年
3位6位4位
30回
1954年
1位1位1位
29回
1953年
2位2位2位
28回
1952年
1位2位1位
27回
1951年
3位5位2位
26回
1950年
2位2位2位
25回
1949年
2位2位6位
24回
1948年
7位9位2位
23回
1947年
4位4位4位
22回
1943年
7位6位8位
21回
1940年
本大会に出場なし
20回
1939年
本大会に出場なし
19回
1938年
本大会に出場なし
18回
1937年
2位3位2位
17回
1936年
2位2位2位
16回
1935年
2位2位3位
15回
1934年
1位1位2位
14回
1933年
1位1位1位
13回
1932年
3位3位1位
12回
1931年
1位2位1位
11回
1930年
1位2位1位
10回
1929年
2位1位2位
9回
1928年
2位2位1位
8回
1927年
1位1位1位
7回
1926年
本大会に出場なし
6回
1925年
2位4位2位
5回
1924年
3位3位2位
4回
1923年
1位2位1位
3回
1922年
1位2位1位
2回
1921年
3位1位3位
1回
1920年
3位3位2位

※2023年10月現在


参考
過去の記録箱根駅伝 東京箱根間往復大学駅伝競走公式ホームページ

箱根駅伝の歴代優勝校の記録はこちら
>>>箱根駅伝 歴代優勝校の記録
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早稲田大学出身の有名選手

それでは次に、早稲田大学出身の有名選手についてご紹介していきたいと思います。

早稲田大学出身の有名選手(大迫傑)

★ 大迫 傑(おおさこ すぐる)

【経歴やどんな選手か?魅力なども】

1991年5月23日生まれ 東京都町田市出身。

町田市立金井中学校佐久長聖高校卒業

大迫傑さんが本格的に陸上を始めたのは中学生のころ。

中学3年生のときに出場した第33回全国中学校陸上競技選手権の3000mでは、3位に入賞した実力者なんですね。

佐久長聖高校に入学してからもその勢いは止まらず、高校2年生のときに初出場した全国高校駅伝ではアンカーを務め、1位で受け取ったタスキを守り、さらに区間賞も獲得、チームの初優勝に大きく貢献しました。

そして、このときの佐久長聖高校陸上部の監督というのが、なんと現東海大学陸上部監督の両角速監督だったということで、こういう縁の巡り合わせというのも、とても興味深いと感じませんか?

早稲田大学に進学後も世界ジュニア選手権10000mに出場し、8位に入賞。

箱根駅伝と並ぶ大学三大駅伝と呼ばれている出雲駅伝と、全日本大学駅伝でもチームの優勝に大きく貢献しました。

箱根駅伝には4年連続で出場し、2年連続で区間賞を獲得しています。

大学卒業後は、日清食品グループナイキ・オレゴン・プロジェクトの二つと所属契約をしましたが、日清食品グループとの契約は1年で解消現在はナイキの所属となっています。

2015年の元旦に行われたニューイヤー駅伝では1区を走ると、ラスト1kmからのロングスパートを見せて区間賞を獲得。

華々しい実業団駅伝デビューを飾りました。

2016年に行われた第100回日本陸上競技選手権大会では、10000mと5000mに出場して両方ともに優勝、二冠を達成。

そのほかにも、自身初マラソンとなった2017年ボストンマラソンで3位、同年の日本選手権10000mで連覇を達成福岡国際マラソンでは3位(日本人1位)などなど、ここではご紹介しきれないほどの数々の素晴らしい成績を残されています。

そして、2020年3月1日に行われた東京マラソン2020において、日本記録を21秒更新する2時間05分29秒で4位入賞

続く3月8日に行われたびわ湖毎日マラソンにて、大迫傑さんの記録を上回る選手がいなかったことから、大迫傑さんは東京オリンピック2020の日本代表選手に決定、2021年8月8日に行われた東京オリンピック2020では見事6位入賞を飾りました。

そして、事前に発表された通り、この東京オリンピック2020を最後に現役を引退

今後はどのようなことをしたいのか、ということは、まだ決まっていないそうですが、ケニアやアメリカ、日本などを中心に、次世代の育成に力を注ぎたいという方向性はあるようです。

指導者としての大迫傑さんの活躍も楽しみですね。

【箱根駅伝での成績】
第87回大会(2011年) 1区 区間賞
第88回大会(2012年) 1区 区間賞
第89回大会(2013年) 3区 区間2位
第90回大会(2014年) 1区 区間5位

【大学卒業後の主な記録】
ニューイヤー駅伝(2015年) 1区 区間賞
ナイトオブアスレチック(2015年) 5000m 6位(日本記録)
ボストンマラソン(2017年) 3位
第71回福岡国際マラソン(2017年) 3位
シカゴマラソン(2018年) 3位
東京オリンピック2020(2021年) マラソン 6位

【自己ベスト】

1500m 3分40秒49(2016年)

3000m 7分40秒09(2014年)(日本記録)

5000m 13分08秒40(2015年)(日本記録)
10000m 27分36秒93(2018年)
マラソン 2時間05分29秒(2020年)

早稲田大学出身の有名選手(瀬古利彦)

★ 瀬古 利彦(せこ としひこ)

【経歴やどんな選手か?魅力なども】

1956年7月15日生まれ 三重県桑名市出身。

四日市工業高校高校卒業

瀬古利彦さんは1970年代後半から1980年代にかけて、宗兄弟(宗茂・宗猛)兄弟とともに日本長距離界をリードしたことでも知られいて、レース解説などでも活躍されている有名な方です。

とっても経歴が長い方ですので、ここでは簡単にご紹介していきますね。

中学時代には野球部でピッチャーを務めていて、東海地区の強豪校からの誘いもあったことから、甲子園を目指すつもりで野球をしていたそうです。

ところが、中学1年生のときに校内の5km走大会で優勝したことをきっかけに陸上部から声がかかり、陸上の大会に出るようになります。

そして、市の陸上大会2000m優勝県大会でも優勝という成績に、少しずつ陸上に魅力を感じるようになった瀬古利彦さんは、陸上競技の強豪校である四日市工業高校へ進学。

高校1年生のときには、山形インターハイ800mで3位、高校2年生の時には三重インターハイ800mと1500m優勝3年生のときには福岡インターハイ800m、1500m優勝しています。

インターハイの予選と決勝を合わせて4日間合計15400mを走ったうえ、2種目での優勝、1種目の準優勝という成績に、当時は「日本中長距離史上、特筆される才能を持った好選手」としての評判も高かったそうですよ。

全国高校駅伝でも3年連続で「花の1区」に出場し、2年生のときには区間賞も獲得するなど、常に好成績を残されていたことが分かりますね。

大学に進学する際、一度は中央大学への入学が決まりかけていたそうなのですが、早稲田大学のOBの方からの誘いもあり、一般入試を試みたところ不合格となってしまった瀬古利彦さんは南カルフォルニア大学へ在籍しながら浪人生活を送ったのだとか。

1年後、早稲田大学に入学した瀬古利彦さんは監督の勧めもあって中長距離からマラソンへ転向します。

自身初マラソンとなった京都マラソン(1977年2月)では10位となり新人賞を受賞、福岡国際マラソン(1977年12月)では初優勝を飾るなど、大学生時代の成績も目を見張るものがありますね。

箱根駅伝には4年連続で「花の2区」を走り、2年生と4年生のときには区間新記録も記録しました。

早稲田大学を卒業後はヱスビー食品に入社。

1981年4月に行われたボストンマラソンでは日本人として7人目の優勝を飾りましたが、後の欧州遠征中に脚を故障してしまい、1年以上もの間、マラソンのレースに出場することができませんでした。

1年10ヶ月ぶりの大会出場となった1983年2月の東京国際マラソンでは日本人初の2時間8分台(1時間8分38秒)を記録し見事復帰戦で優勝を飾ると、同年12月の福岡国際マラソンでも優勝

その後も、フルマラソンやワールドカップマラソン、自身3度目のボストンマラソンなど多くのレースに出場しています。

そして、1988年に行われた第1回国際千葉駅伝で日本チームのアンカーを務めたことを最後に、現役を引退

現役を引退後は、ヱスビー食品スポーツ推進局局長を経て、2016年からDeNAランニングクラブ総監督(2019年からはエグゼクティブアドバイザー)に就任

2016年11月からは日本陸上競技連盟の強化委員会マラソン強化戦略プロジェクトリーダー兼任理事に就任し、マラソン中継の解説者としても活躍しています。

なお、2019年6月1日でDeNAランニングクラブ総監督を退任し、エグゼクティブアドバイザーに就任されたとのことです。


参考
瀬古利彦Wikipedia

【箱根駅伝での成績】
第53回大会(1977年) 2区 11位
第54回大会(1978年) 2区 2位
第55回大会(1979年) 2区 区間新
第56回大会(1980年) 2区 区間新

【自己ベスト】
5000m 13分24秒29
10000m 27分42秒17
20000m 57分48秒07(アジア記録)
25000m 1時間13分55秒08(アジア記録)
30000m 1時間29分18秒08(アジア記録)
マラソン 2時間08分27秒

早稲田大学競走部のここに注目!

早稲田大学競走部のここに注目!という点を挙げてみたいと思います。

早稲田大学競走部の練習拠点となるメイングランドは、早稲田大学所沢キャンパス(織田幹雄記念陸上競技場)です。

2019年に改修工事が行われ、新しい全天候競技場に生まれ変わりました。

直線・コーナーともに9レーンもあるということで、日本陸上競技連盟第三種公認の400mトラックなんだそうですよ。

また、トレーニングルームも2019年に改修され、空気圧の負荷で筋出力にあった抵抗を作り出すことができる「KEISER」、そして地面からの反発を測定できる機械や室内走路といった最新設備があります。

さらに早稲田大学競走部では”ケガをしないチーム”をテーマに掲げていて、ケガをしないための動きづくりにも力を入れていて、ファイテンの酸素カプセルフットマッサージ器を導入して活用しています。

ファイテンの知野亨トレーナーと共にトレーニングをする、通称”知野トレ”は選手たちにも好評で、継続することで効果を実感できるという声もありました。

また、2020年からはコロナ禍ということもあり、思うように練習が出来なかったり、箱根駅伝に焦点を絞ってインカレに出場しない選手を決めたりと、各チーム同じような悩みを抱えていることも分かりました。

そのような状況の中、合宿の制限がかかりながらも、早稲田大学の選手たちは夏合宿を経て順調に仕上がっているようです。

4年生が「親」なら3年生が「兄貴」といった感じで、チーム内のコミュニケーションも良好で、上級生の面倒見もいいようですよ。

一度は「総合3位」の目標を「シード権獲得」にした早稲田大学でしたが、再び「総合3位」を目標に掲げています。

第99回大会(2023年)では目標を達成することができるのでしょうか。

ぜひ頑張って欲しいと思います。


参考
早稲田大学競走部 相良豊駅伝監督×ファイテン 知野亨トレーナー対談レポート!phiten

早稲田大学競走部を応援するのに参考になるサイトも紹介!

・早稲田大学競走部公式ウェイブサイト

参考
トップページ早稲田大学競走部公式ウェブサイト

・X(旧Twitter)早稲田大学競走部

参考
早稲田大学競走部X(旧Twitter)

・Instagram 早稲田大学競走部中長距離【公式】

参考
大学陸上競技部公式InstagramInstagram

【箱根駅伝】早稲田大学まとめ

早稲田大学競走部について、箱根駅伝での歴史や記録、早稲田大学出身の有名選手などについてご紹介してきました。

ほかのチームからも注目されているということを忘れずに、さらに上を目指していくというのは、強豪校ならではの意識の高さなのではないかなと感じました。

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